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常設展示

新潟県のあゆみ

近現代の新潟

北越戊辰戦争・自由民権運動・県会での活発な論議・石油産業の勃興・大河津分水工事…。明治維新以降のめまぐるしい変化のなかで新潟県の発展に貢献した、多くの先人たちの姿を紹介します。

自由民権運動と山際七司

自由民権運動と山際七司明治10年代から、新潟県の自由民権運動が盛んになりました。県内の民権家の中心人物として活躍した山際七司は、木場村(現新潟市[旧黒埼町])の戸長を務めるかたわら、民権思想を学び、同志とともに政府に国会開設の請願を行いました。頸城地方では、鈴木昌司らを中心に頸城自由党の活動が盛んでした。1883(明治16)年の高田事件により、頸城自由党の幹部や山際七司が逮捕され、しだいに、県内の自由民権運動は衰退しました。


初期県会と山際七司

山際七司は、県会議員そして国会議員として活躍しました。彼は、大河津分水工事の中止に対して、政府が治水を果たす義務がある点と、私たち県民に治水事業を求める権利がある点を主張しています。まさに、自由民権運動の先頭に立つ、説得力にあふれた主張です。


西巻開耶の男女同権演説

「新潟新聞」と「朝野新聞」などの記録によれば、柏崎での西巻開耶(にしまきさくや)の 演説は、1881(明治14)年から1882(明治15)年にかけて3度ありました。全国的にみても、このころ女性が演説した記録はあまり見られません。 開耶の演説の詳細は残念ながら分かりませんが、堂々と男女同権と女子教育の必要性を説き、聴衆は驚いたようです。当時、開耶は柏崎小学校の教員であり、女 性の知識不足を切実に感じていたようです。演説から6年後、英語と漢学を修めた開耶は、念願の女性のための学校を福島市に創りました。


女株券師と石油産業

女株券師と石油産業長岡の東山では、明治20年代のはじめ、多数の石油会社が設立されました。当初、石油事業はリスクをともなうため、銀行は資金を貸しませんでした。そのため、各石油会社は自力で資金を得るために株券を発行しました。1893(明治26)年には、大噴油があり、長岡では空前の株取引ブームとなりました。この時、株の売買の仲立ちを行ったのが、女株券師たちでした。


婦選獲得運動と女性議員誕生

婦選獲得運動と女性議員誕生1946(昭和21)年4月10日、赤ん坊を背負ったり、幼児の手を引いた母親たちの長い行列が、県内のいたるところで見られました。どの母親たちも、緊張した様子でした。この日は、戦後初の衆議院議員総選挙の投票日であり、女性が初めて参政権を行使できた記念すべき日でした。この選挙で、県内から2人の女性代議士が誕生しました。


大河津分水ができるまで

江戸時代の中ごろから、寺泊の本間屋数右衛門をはじめ、多くの人たちが分水工事を願い出ましたが、幕府から許可は下りませんでした。明治のはじめ、 政府は工事を始めましたが、数年で工事は中止されました。その後、県議会は懸命に政府に働きかけ、遂に1909(明治42)年に工事が再開されたのです。

工事は、エキスカベーターなどの大型掘削機械が使われ順調に進められましたが、地すべりが3回も起こり工事が長引き、1924(大正13)年に完成しました。しかし、1927(昭和2)年に自在堰がこわれ、信濃川の水のほとんどが分水に流れ、下流は水不足で大きな被害が出ました。そのため、補修工事が行われ、1931(昭和6)年に現在の大河津分水が完成しました。


大河津分水ができるまで 交通網の整備と大河津分水工事 ここがポイント!

ここをのぞくと中に資料が入ってるよ!のぞいて見よう!


映画の時代~銀幕のスターたち~

新潟県で映画が初めて上映されたのは、1904(明治37)年、新潟市の国粋座で、ほとんどは日露戦争の戦況を報じたものでした。大正時代になると県内各地に映画館ができ、観客でにぎわいました。当時映画は活動写真と呼ばれ、無声の映画を弁士が巧みな話術で解説していました。各映画館では、腕の良い弁士を確保するために高い給料を払っていました。 展示室にある映画館のファサードは、大正時代の大竹座(だいちくざ)(新潟市)をモデルにしています。当時の大竹座は、新潟市内の映画館の中で最も大きく、建物の外装に数百の電飾を施して市民を驚かせました。


大竹座映画の時代~銀幕のスターたち~


地主王国

1924(大正13)年の調査では、新潟県の50町歩(ヘクタール)以上所有の大地主は、256戸を数え、北海道を除くと全国で第1位でした。また、1000町歩以上の巨大地主は、北海道を除く全国に9戸、新潟県に5戸ありました。地主は、村々に支配人を置き、小作料の徴収などに当たらせました。


小作争議と農民運動

新潟県における地主と小作農の対立は、1897(明治30)年頃から始まり、第一次世界大戦後の恐慌期から激しくなりました。特に木崎争議(現新潟市)・王番田争議(現長岡市)・和田争議(現上越市)は全国的にも有名です。小作農たちが小作料の引き下げを要求すると、地主たちは、未払いの小作料の請求・田畑の耕作禁止の訴えを起こして対抗しました。小作農たちは農民組合の支援を受けて闘いを続け、子どもたちの同盟休校や地主襲撃など過激化し、長期化したものもありました。