中央で律令がつくられ、文字による政治が新潟県にも及んできた約1,300年前からの時代、いわゆる奈良・平安時代を紹介します。
7世紀から8世紀にかけて、近畿地方のヤマト国家は、中国風の新しい支配の方法を取り入れようと努力し続けました。当時の中国では、皇帝と呼ばれる君主を頂点に、文字を操り書類を発行できる役人たちがその手足となって働き、国家を動かしていました。ヤマト国家は、こうした政治のテクニックを自分のものにして強くなり、本家中国や朝鮮半島の国々にもひけをとらないようになりたいと考えたのです。
試行錯誤の末、8世紀の前半には、今日まで知られる律令(りつりょう)が完成しました。これを根本に役人たちが規則に従って文書を作り、中央政府から各地に命令を下して、新しい日本国を運営しようとしました。
下の写真は古代の役人です。越後あるいは佐渡で働いていた人を想定しています。地方の諸国では、国司(こくし)と呼ばれるトップクラスだけが都から来た人で、その下の郡の役人たちなどは、地元からの採用でした。中国風の立派な国家も、こうした人たちが支えていたのです。
この役人は今、鮭の付札(つけふだ)を書いています。国家を運営するのに使う文書は紙と思われるでしょうが、用途によっては木が盛んに用いられました。
ほとんどの木簡(もっかん)や漆紙文書(うるしがみもんじょ)には、意味のある文が本来は記されていました。
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しかし、墨書土器(ぼくしょどき)には1字や2字だけのものもたくさんあって、意味も難解です。本来政治・文化の道具として持ち込まれた文字ですが、人々の受け取り方はさまざまでした。それでもなお、漢字は私たちとともに現代に生きています。