江戸時代、河川の下を新川が通るという工事の様子をジオラマで復元しています。
西蒲原地方には一面に無数の潟があり、アシやガマの繁る湿地帯でした。そこは農業用水の捨て場として利用されていましたが、降った雨は低い三潟(大潟(おおがた)、田潟(たがた)、鎧潟(よろいがた)) に集まり、流れ出るところのないまま溜まり水となりました。大雨の時などは、田畑までこの「悪水」が押し寄せてきて作物に大きな被害をもたらしました。何度も襲ってくる水害から逃れるためには三潟の悪水を日本海に放出するしかありませんでした。三潟周辺の庄屋(名主)たちが相談して、排水路をつくる工事を 幕府に願い出ました。この地域は幕府領、村上藩領、長岡藩領などが入り組んで支配が複雑な上、新潟町の反対もあって難航しましたが、1817(文化14)年、幕府の許可を得て、その翌年から水抜工事が始まりました。
工事は、海岸から水路を掘る組、金蔵坂(きんぞうざか)を切りくずす組、底樋(そこひ)を埋めこむ組、大潟から水路を掘り進む組に分かれて行われました。いったん西川を迂回させてその川底を掘り、底樋という木の枠型を埋め込み、その上に土を 盛ったうえで再び川を元の位置に戻しました。西川の下を新川が通るという工事でした。この工事により、三潟の水は日本海に放出されました。新川の完成によりつぎつぎに新しい田が開墾されていきました。 その後、底樋が痛んだり老朽化が進み、何度も新川の改修工事が行われました。大正時代になると、木製の底樋をやめ、花崗岩とコンクリートを使ったアーチ型の水路橋を造って水を通しました。このような工事は排水機場ができるまで続きました。