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神林昭一氏寄贈資料 長岡市山下遺跡出土土器 |
長岡市柿町に所在する山下遺跡から出土した火焔型土器(長岡市馬高縄文館展示)は、その出現期のものと位置づけられています。火焔型土器の誕生には、新潟県をとりまく地域を本拠とするさまざまな土器様式の影響が考えられています。隆起線文様のみで器面を飾った本資料は、火焔型土器の出現に影響を与えた富山県・石川県を中心にひろがる土器様式に類する特徴があります。その一方で富山県・石川県の同時期の土器にはみられない4つの突起をつけています。それは火焔型土器の鶏頭冠突起の数と共通しており、注目されます。 |
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料理活用 |
天保2年(1831)、長岡で刊行された料理本。著者は長岡の肴屋高野久太郎です。料理献立の形式は本膳料理で、料理ごとに四季の献立例が示されています。豊富な食材も記され、江戸時代後期の越後長岡の料理文化を知るうえで貴重な史料です。 |
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上杉景勝書状 |
天正10年(1582)4月6日、上杉景勝が篠岡(現阿賀野市)での守備に専念 することを冨所伯耆守に指示した書状です。この年2月、上杉景勝は対立していた新発田重家と一旦和睦しましたが、3月ころにはふたたび決裂します。同じ月には同盟していた武田勝頼が天目山の戦いで滅び、武田領であった信濃にも織田信長勢が侵攻するようになります。景勝の危機的状況は深刻さを増していました。 |
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ハンコタンナ 山形県庄内地方 |
山形県庄内地方の女性が用いた作業用の覆面です。これを顔に巻くことによって、日除け・風除け・虫除けとしました。布端の刺繍模様は、巻いたときに額部分に見える飾りです。穴のあいた銭を留め具に用いています。ハンコタンナの語源は、長さもしくは幅を半分にした意の「ハンコ」と、手ぬぐいをあらわす手巾(たのこひ)を略した「タンナ」にあるものと考えられます。 |
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新国立銀行券5円札(第百三十九銀行発行) |
明治6年から12年まで、国立銀行という名前の私立銀行が日本各地に設立されました。これは国法に基づいて設立された銀行という意味で、各銀行は銀行券を発行することが出来ました。これは高田に明治12年に設立された第百三十九銀行が発行した新国立銀行券の5円札です。新国立銀行券は初めて日本国内で製造された紙幣で、1円札と5円札があり、それぞれデザインから「水兵1円」「かじや5円」と呼ばれます。 |
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山本五十六元帥刀拵(やまもといそろくげんすいとうこしらえ) |
長岡の歴史を伝える会所蔵/ 新潟県立歴史博物館寄託
元帥とは陸海軍大将のなかで特に功績のあった者に、天皇の最高軍事顧問となる者に与えられた称号です。元帥刀はこの権威を象徴するものとして下賜され、その形態や意匠が細かく決められていました。山本五十六は死後、元帥の号を贈られており、国葬では遺骨・遺影とともに、この元帥刀が葬列の先頭を進みました。現在は刀身はありません。 |
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神林昭一氏寄贈資料 -長岡市山下遺跡出土火炎土器- |
この土器は、5000年くらい前の縄文時代中期中頃のもので、新潟県長岡市山下(さんか)遺跡から発見されました。口縁部には鶏のトサカに似た突起が4個あり、それらの間は鋸歯状の小突起やトンボ眼鏡状の突起で埋めています。頸部は、無文地に対向する弧線文が隆帯を用いて施文されています。この文様は、新潟県西部~富山県東部の火焔型土器と共通しています。胴部は一部しか残っていませんが、全面縄文のみの施文と考えられています。 |
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親不知開鑿工事写真 |
明治15年、文部少輔九鬼隆一、文部省御用掛岡倉天心らが学事巡視のため新潟県を訪れた際に、開鑿工事中の親不知の難所で撮られました。同行の文部省属中川元の日記の10月4日にこの写真の撮影についての記事が見られ、撮影日が特定できる貴重な写真です。 九鬼隆一ら一行は地域の教育事情、就学状況を視察するために北陸・信越を巡視したとされていますが、一説には各地で激しくなっていた自由民権運動の状況を探るという任務もあったとも言われています。 |
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後期旧石器時代の細石刃石器群 長岡市(旧川口町)荒屋遺跡(あらやいせき) 採集星野洋治氏コレクション |
規格のそろった細石刃を作り出すために、岩石をクサビ形に整えた細石刃石核の存在を特徴とします。このような細石刃および細石刃石核とともに発見される石器の中には、長岡市(旧川口町)の荒屋遺跡の名を冠して、荒屋型彫器と呼ばれる石器があります。荒屋型彫器は日本列島からシベリアまでひろく発見され、東アジアの石器時代のおわりを特徴づける石器のひとつです。 |
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越后酒造家一覧 |
江戸時代末期に刊行された越後国の酒造業者の一覧です。序文には、越後国の酒造業者が家業繁栄を京都の松尾神社へ祈願し、奉納するために作成されたとあります。三島郡73人、魚沼郡74人、古志郡48人、刈羽郡72人、頸城郡239人、蒲原郡241人、岩船郡57人、合計804人もの酒造業者が記されています。日本酒大国新潟の礎は、幕末から明治初期頃には既に築かれつつあったようです。 |
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上杉旱虎書状 |
上杉旱虎(輝虎、のちの上杉謙信)が長尾喜平次(のちの上杉景勝、謙信の養子)に送った書状です。喜平次の送った守巻子に対するお礼とともに、字がうまくなったことを喜んで習字手本を送る、としています。米沢市上杉博物館所蔵『伊呂波尽手本』(上杉家文書のうち、国宝)がその手本にあたると考えられます。謙信の書状の中でも、仮名文字を多数使用したものは少なく、大変に貴重な古文書といえます。 |
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ナンバ(ナンバグツ) |
雪踏みに用いられた藁製の履き物です。昭和47(1972)年、旧佐渡郡畑野町大久保(現佐渡市大久保)で収集されたものです。全長50㎝、横幅25㎝あり、雪を踏むため大ぶりな作りとなっています。両足の先端には藁縄が付いており、この縄を手で持ち、これを引き上げて歩きました。越後側の雪踏みでは、もっぱら輪型のカンジキや踏俵などが用いられます。そうした意味では、佐渡の地域的特色を示す貴重な資料といえるでしょう。 |
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高坏 |
長岡市横山遺跡出土の弥生時代後期の高坏です。最大径は18.2cm、高さは13cmです。高坏は弥生時代になってから作られるようになった器の形で縄文時代には見られません。盛りつけ用の土器と考えられており、木製もありました。お供えをのせる器として発達し、このような赤塗りやすかし文様で飾られるようになりました。 |
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神林昭一氏寄贈資料 -小千谷市俣沢遺跡出土火炎土器- |
これは、火焔型土器と共に火炎土器様式を代表する王冠型土器です。口径は16cm、器高25cm、底径9cmと推定される深鉢で、煮炊きに用いられました。特徴は口縁から上方に伸びる4個の大きな短冊形突起です。この突起は左右対称ではなく、左側には抉があります。文様は隆線で全面に渦巻文などが描かれ、縄文土器なのに縄文はありません。作られたのは今から4,500年位前の縄文時代中期中頃です。 |
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越後国石井庄寄人庄子解 |
元々は奈良東大寺に伝えられた文書で、康平2(1059)年に東大寺領荘園である越後国石井庄の人々が荘園の管理者である良真の不正を東大寺に訴え別の者を管理者にするよう要望したものです。 石井庄は頸城郡にあったことは知られていましたが、近年の発掘調査で「石井庄」「石庄」と書かれた墨書土器が発見された岩ノ原遺跡(上越市向橋)近辺がこの荘園にあたるということがわかりました。 |
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北越官軍先鋒尾張藩銃士隊藤田鉦五郎 軍中日記 |
北越戊辰戦争で官軍(新政府軍)の先鋒を務めた、尾張藩銃士隊の藤田鉦五郎という人物が記した軍中日記。藤田は慶応四年三月下旬、「各々五色四色の陣羽織、紫或いは紺黒色なる義経袴着しさらしの後鉢巻信玄笠皆相揃、」といった服装で名古屋を出発。越後では小出嶋の戦い、榎峠の戦いなどに参加しています。旧幕府軍の長岡城奪還の際には小千谷へ落ち延び、再落城の際には妙見から青嶋村、長岡城下へ進撃しています。 新政府軍側の兵士の動向の分かる貴重な資料です。 |
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縄文時代中期(約5500年前)、王冠型土器 |
国宝に指定されている唯一の縄文土器は、新潟県十日町市笹山遺跡出土の火焔型土器群です。紹介する土器は、出土地不明ですが、火焔型土器のなかまの典型的な特徴を示しています。火焔型土器の特徴である鶏頭冠突起はなく、口縁が大きく波打ち、短冊状に突き出ています。土器全体のシルエットが王様の冠のように見えることから王冠型土器と呼ばれています。表面は火焔型土器と共通する渦巻く隆起線で覆われています。 |
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北越志 |
魚沼郡を中心とした衣食住や生業に関わる庶民の生活文化を記録した書物です。著者は、江戸渋谷宮益町の名主・亀井協従で、寛政12年(1800)頃の成立と考えられています。日本有数の豪雪地である魚沼郡で使用された民具などが、細密かつ色鮮やかな挿絵入りで示されていることが特筆されます。新潟県の歴史・民俗を研究する上で貴重な資料です。 |
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春日山古城図 |
上越市に所在した春日山城を江戸時代以降に描いた絵図は複数伝来していますが、本図はそのなかの一つです。作者はわかっていません。図中には「越後頸城郡長尾謙信公居城春日山城古城之図」とあります。南を上側にして、中央やや右側に春日山城の本丸を描き、そこを中心にして「毘沙門堂」や「三郎殿屋敷」などが配置されています。 |
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ホウダロウ |
正月や小正月には、その一年の豊作を祈る行事が行われました。この資料は、昭和35年に村上市雷で収集された「ホウダロウ」と呼ばれるものです。材質はホオノキで、表皮を削った細工が施されているのが特徴です。この2本の造り物をシナ皮の糸で連ね、正月に吊り下げて飾りました。農作物の穂が垂れて稔った姿を模しており、「ホウダロウ」の呼称も「穂が垂れる」という意味なのかもしれません。 |
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ヒスイ大珠 東北地方出土 |
左 10.9×4.9cm 右 径8.3cm
糸魚川市から富山県東部にかけての地域が産地であったヒスイはその硬く重い性質から、縄文時代にまずハンマーとして使用され始めました。前期後半には垂れ飾りとして使われ、まもなく日本列島の各地に普及しました。形に地域差があり、短い円柱状の緒締型(右)とよばれるものは東北北部に特徴的です。当時の拠点的な集落でのみ発見されることから、ステータスシンボルのような重要な意味合いを持つ装飾品であったと考えられます。 |
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ツギコシドンザ(刺子仕事着) 新潟市西蒲区間瀬(旧岩室村間瀬)88(H)×116(W) |
布を二枚重ねた刺子衣。袖は、袖付け部分が大きく、袖口がせまい「もじり袖」となっています。そのため、動きやすく、しかも空気を逃がさない構造になっています。腰部を十分に覆うようにして丈が長いことも特徴です。藍染の絣もめんに、縞と紺無地の布が何枚もはぎあわせ縫いされています。その上から枡形文様に刺し縫いされています。地元では、嫁に行く際に拵えておくもので、春のよそ着として着用していました。 |
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長岡市岩野原遺跡出土縄文土器 (神林昭一寄贈資料) |
この土器は、台の部分が復元されていませんが、台が付く浅鉢です。大きさは、口径は28cm、高さは36cm余りと考えられます。文様は、粘土紐を貼り付けた隆帯や半割したタケなどでケズリ出した隆線によって器面全体に渦巻文や曲線文が描き出されています。その他、各種の突起や把手も付けられています。色調は黄色味かかった肌色です。時期は、5,000年くらい前の縄文時代中期中頃と考えられます。 |
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米寿祝いの杵 |
人は一生の中で、ある特定の年齢の節目ごとにお祝いします。この資料は新潟市南区次郎右エ門興野で米寿のお祝いに使用された杵です。ここでは米寿のお祝いとして親類に紅白の丸餅を配りました。このとき八十八歳を祝ってもらう人は、桐で作った小さな杵で餅を搗くまねをしました。八十八歳の長寿を祝うとともに、その長寿にあやかろうとする人びとの心意が汲みとれます。 |
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直江状写 |
慶長五年(一六〇〇)四月、徳川方は上杉方に対して謀反の疑いをかけ上洛等を要求した。「直江状」はこれに対する返状とされ、その要求を拒否している。これを読んだ家康は激怒し、結果として関ヶ原合戦までつながるともいわれる。ただし、本状を含め伝来しているものはすべて写本であり、その真偽についても未だ確定的ではない。 |
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ヨギの裏 |
この資料は、昭和38年に新潟県新発田市熊出(くまいで)で収集されたものです。丈210センチ、裄177センチあります。古着や使い古した布切れでつぎはぎを重ねて、ヨギの裏地として再利用しています。かって木綿が貴重であった時代に生み出された素材利用の工夫や、当時の生活技術の様子がよく分かります。 |
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上越線全通記念博覧会画報 東京日々新聞付録 |
昭和6年9月1日、長らく新潟県民の夢であった上越線が全通しました。長岡では市主催で上越線全通記念博覧会が開催されました。会場は噴水を備えた人工の池を中心に展示館を環状に配置し、ネオンが点っていました。41日間の会期中、入場者は約67万人。鉄道開通の喜びに浸るとともに、最先端の技術に感嘆したのでしょう。 |
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双口土器(そうこうどき) |
縄文時代中期の火炎土器様式の時期(約5000年前)よりやや古い時代の土器です。二つの大きな注ぎ口がある大変めずらしい形をしています。この土器が出土した山下遺跡は長岡市柿町にある遺跡で、火炎土器様式の始まりを明らかにする上でカギになる遺跡と見られています。 |
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東講商人鑑 |
江戸の大城屋良助が発起人となり、東日本を中心とした旅行組合として結成された東講(あずまこう)が、安政2年(1855)に刊行しました。東講に加盟している定宿や問屋・商店などが記され、幕末期の商業事情の一端も知ることができます。写真は三条町の場面です。 |
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荒川保奥山庄堺相論和与絵図 |
鎌倉時代の末期、荒川保(荒川町)と奥山庄(胎内市)の間の境界線を定めるときに作成された絵図です。真ん中に朱線が引いてあり、その両端には鎌倉幕府の執権・連署の花押が書いてあります。鎌倉時代の新潟県内を描いている絵図は2点しか伝わっておらず、大変貴重な資料といえます。 |
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五泉市薬師堂遺跡出土石器 |
旧石器時代の槍の先端や加工具の刃となった石器です。一塊の岩石から規格性の高い剥片を大量に生み出す石器作りの手法を石刃技法といいます。石刃技法で得られた剥片(石刃)を素材に製作されたナイフ形石器や彫刻刀形石器を多数含む石器群です。 |
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村上市上海府地区の藤布衣 |
新潟県の北部では、かつて木綿や麻の栽培が定着せず、藤などの樹皮を糸の素材にし、独自な布づくりの文化が培われてきました。この一点は、縦もヨコも藤糸で織った藤布衣で、丈夫で風通しもよく海や山仕事にも適し、長く着用されたものです。襟や袖の縁には紺の木綿布で縫い合わされていて、女性の美的センスが感じられます。 |
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帰山雲涯画 信川之鮭魚 |
明治前期絹本彩色。明治11年(1878)から18年(1885)まで新潟県令を務めた永山盛輝の御子孫から寄贈されたもので、岩船郡三面(みおもて)郷や明訓学校などの風景画や小千谷縮など名産の図などを所蔵しています。帰山雲涯は幕末から明治初期にかけて三条を中心に活躍した画家です。 |
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堀直竒寿像(ほりなおよりじゅぞう) |
堀直竒(1577-1639)は、長岡城とその城下町の建設、新潟町や湊の整備を手がけ、後に村上藩10万石の領主となった人物です。本画は、寛永13年(1636)、直竒還暦時の姿を描いたもので、画幅上方には京都大徳寺153世澤庵宗彭らの賛詞が記されています。 |
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上杉謙信(輝虎)血判起請文 |
永禄10年(1567)、上杉謙信は色部勝長を佐野(栃木県)に派遣するにあたって「一生の忠信」と褒め称えました。この古文書はそのときに作成されたものです。後半には神々の名前があり、「この内容に偽りがあれば、神々の罰を受けるだろう」と記されています。さらに謙信の花押のところ(古文書の左下)には血判があり、古文書の内容が偽りではないことをさらに強調しています。 |
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新潟県小千谷市 俣沢(またさわ)遺跡出土土器 |
縄文時代中期(約5500年前)、器高17cm、口径15cm
縄文土器は年代や地域によって異なります。現代の新潟県にほぼ相当する地域は、火焔土器を典型としています。俣沢遺跡出土土器は、鶏頭冠と呼んでいる火焔土器の最大の特徴であるニワトリのトサカ状の突起はありませんが、土器表面の文様が共通します。 |
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鉄黒漆塗紺糸威異製最上胴具足(伝上杉景勝所用) |
上杉謙信のあと、家督を継いだ景勝が用いていたと伝えられる甲冑です。兜の裏側に「永禄六年八月吉日」という文字が刻まれています。このとき上杉景勝はまだ8歳でしたので、上杉謙信の時代に作られた甲冑といえます。卍の下に猪(摩利支天)が彫られた大型の前立ても注目できます。 |
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佐渡国金銀山敷岡稼方図(さどのくにきんぎんざんしきおかかせぎかたず) |
佐渡金銀山絵巻にはいくつかのパターンがあり、数多くの絵巻が伝えられています。基本的な内容は、坑内の採鉱の様子からはじまり、様々な製錬の過程を経て小判に鋳造されるまでを描いています。本絵巻もそのような構成で描かれる1巻本で、江戸後期作と思われる全長25メートルにもなる長大な絵巻です。 |
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県指定カンジキコレクション
棒並べ型カンジキ |
県指定カンジキコレクション
新潟県立博物館では、昭和44年3月25日付で新潟県文化財指定を受けたカンジキコレクション41点を所蔵しています。新潟県民俗学会によって収集・保管されていましたが、その他の多くの民俗資料と共に当館へ寄贈いただき、移管されました。蒲原低湿地帯や魚沼地方、佐渡を中心に収集されたカンジキ類で、オオアシやフンダワラも含まれています。新潟県内における田用・雪用のカンジキ類の特徴が、非常によく表れている大変貴重な資料です。
棒並べ型カンジキ
県内のカンジキ類の用途には、湿田での作業に用いられる田用、雪踏みや雪上歩行に用いられる雪用の2種類がありますが、形は地域や用途によって違い、とても多彩です。写真は主に蒲原平野に分布する「棒並べ型」のカンジキです。田用には木、雪踏み用には竹が使われましたが、1つのカンジキで併用した例も多くあります。 |
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笹川コレクション絵葉書
東坂之上町(雪の長岡) |
この絵葉書は昭和初期の長岡市東坂之上町の雪の風景のものです。消雪パイプや機械除雪が発達していなかったこの時期、雪は人々にとって今以上にやっかいなものであったと考えられます。それにもかかわらず、雪が絵葉書の素材になっているということは、当時から「雪の長岡」が名所であり、人に見せるものであると考えられていたからです。 |
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九条頼経袖判下文 |
越後文書宝翰集(えちごもんじょほうかんしゅう)は全44巻、705通の中世古文書群です。この古文書はそのなかでもっとも古いもので、鎌倉幕府四代将軍の九条頼経が当時の色部氏の当主公長による小泉庄支配を認める内容を示しています。越後文書宝翰集の中には色部氏に関する古文書が多数含まれ、鎌倉時代から戦国時代末期までの歴史をたどることができます。 |